未婚独身ひきこもりの自殺幇助を阻止する為に

不登校情報センター公式ブログにおいて、「未婚独身ひきこもりの自殺を幇助しかねない」投稿が見受けられましたので、この投稿を以て此処に「紙の砦」を構築したいと思います。

幼児の子育て相談になりました

元・不登校情報センターの通所者であるという女性が、不登校情報センター代表・松田氏宛てに、子供を出産したという「ほほえましい内容のメール」を送り、不登校情報センターは公式ブログ「引きこもり居場所だより」にこれを転載し、松田代表が「あたたかい」コメントを添えました(ご多分に漏れず、松田代表が毎度メールの送り主である母親ご本人に、不登校情報センター公式ブログへの転載許可を取ったか否かは、いささか不明ですが)。

あたかも、手の付けられない不良少女だった元・女生徒が、産んだ子どもを連れて自らの更正・社会復帰に手を尽くしてくれた母校の恩師を訪ねる・・・読者にそのような心温まる情景との重ね合わせが起きる事を期待した投稿だったのかもしれませんが、そういう実例はさほど多くないと聞きます。第一に、子育ては非常に忙しいからです。現に、不登校情報センターに届いたのも手軽に送れる電子メールです。

そして、「いずれ、産んだ我が子を不登校情報センターに連れて行って松田代表に会わせたい」という趣旨の文面なのですが、実際には何もしていない「支援者」もどきを、あたかも大の恩師であるかのように子供に紹介してしまう行為はお勧めできません。
実際に接してみてオカシイ点は色々見えているはずなのに松田代表をそれでも支援者と崇めてしまう=精神的には未だ引きこもり状態を濃厚かつ本質的に引きずっている親と同様に思考力の乏しい子供が育ってしまうか、親の思考力の無さに子供が落胆し――それをバネにして親から精神的ひいては経済的に自立できれば「災い転じて福となす」ですが(※後述する松田代表のご子息も、そういう例かもしれません)――単なる親への失望で終わってしまい重度の無気力症に罹るか、あるいは反動でグレてしまう可能性も捨てきれないからです。


しかし、メール文をボーッと眺めていれば「ほほえましいエピソード」に見えてしまいますし、「私は人の親として育児相談にも乗れるのだ」という点をブログ読者に強調したいからこそ、不登校情報センター代表・松田氏は公式ブログでこれに言及したのでしょう。

しかし、この一見すると「ほほえましいエピソード」は、現代では一般人ですら結婚難と言われている世情においても、ひときわ結婚に縁遠く、その点に引け目や絶望を抱いている引きこもり当事者、及び「孫の顔をおがみたい」と願い、結婚適齢期を迎えた、或いは適齢期を過ぎた未婚・非婚・独身の引きこもり当事者に日々プレッシャーを掛け続けている、あるいは決して払拭されない失望の視線を日々向け続けている親御さん方の仕打ちに耐え忍んでいる引きこもり当事者たちに対する配慮をあまりに欠いた投稿であるとも言えます。

百歩譲って、仮に不登校情報センターが、引きこもり当事者の「お見合い相談」(結活)に乗ってきた実績が有り、その成果としてのメールなら掲載しても良いでしょう。しかし、そのような実態はありません。引きこもり当事者(主に女性)が結婚できたのは、不登校情報センターの外から降って湧いた単なる偶然や幸運の巡り会わせでしかないので、それをあたかも不登校情報センターの支援実績・支援成果であるかのように公式ブログに掲載する道理は全く通りません。

また、「引きこもり当事者でも、このような幸せな結婚は可能」という希望をチラつかせて不登校情報センターへの集客と、
さらには「このように引きこもり当事者でも結婚は可能なのだから、結婚できないのは貴方が悪い=お前の自己責任」という論調を醸成し、体たらくな不登校情報センターの支援体制に対する批判意見の封じ込みと、結婚できた引きこもり当事者と出来ていない引きこもり当事者が交流する事で「実は不登校情報センターは引きこもり当事者の結婚に際して何のサポートも寄与もしていない」という事実が明るみに出る事を恐れて両者の交流分断を画策し、これまでの深い業の数々に起因する不登校情報センターおよび松田代表に対する不可避な批判意見の集積を駆逐する意図も窺えます。

んで、なんで、こういう知らせメールは「女性ばかりから」来るんでしょうね?

「自分は1人が好き」と言いながら、「その若過ぎる晩年」において、支えてくれる人が欲しかったのか「結婚したいなぁ」と漏らし、その後「君は、親の老後の面倒ちゃんと見れるの・・・?」などと極めて現実的な質問をし、「働かなきゃ・・・」と自分自身に言い聞かせるように呟かれ――その方が不登校情報センターを訪れた際に、平行して「支援者としての」サポートのもとで求職活動をされていれば年齢的に「再び働く事」は可能だったにも関わらず、“名ばかり支援団体”である不登校情報センターはこれを放置した為、その方の再就労の難易度を更に引き上げてしまった)、そして急速なうつ状態に陥り自殺してしまった方を知っています。不登校情報センターに顔を出された方で自殺された方々は男性に圧倒的に多い。

松田さんよ、彼らの自殺は知らんぷりですか?
幸運にも結婚できた引きこもり女性達を内心で喜ぶのはいいが、いっぽうで自殺していった男性方のいる「支援」団体の公式ブログに「結婚出産おめでとう。そう、全ては“繋がっている”のです」等とヘラヘラと書き散らすのは、どういうご神経をお持ちなのですかね? 人生にピリオドを打ってしまった自殺された方々を完全に無視しているから「繋がっている」等と軽々しく表現できるんですよね?
彼らの自殺は「自分とは全く無関係」「無かった事」になってるんですかね?
非常に許せない。不愉快極まりない。

不登校情報センター公式ブログで言及記事があるように、松田代表には、少なくともお1人、ご子息が居ます。松田代表のメンタリティを考えるとき、ご子息が引きこもりや、精神疾患に罹らずに済んだのは「恐らく外部的な要因も大いにプラスに働いての、極めて幸運な出来事」であると思いますし、松田代表が神様を信じようが信じまいが、松田代表はその幸運に大いに感謝する義務と責任があるはずだと、ひしひしと感じずにはいられません。
松田代表が、こういうときに口走るであろう「何とかなる」「実際に何とかなった」は自身の大いなる幸運への感謝精神と真っ向から対立する、言わば「宝くじで俺は1億円当たったから君だって当たるさ。将来の生活の事は心配するな。何とかなる。大丈夫、大丈夫(笑)」レベルの説得力が皆無のレアー・ケース針小棒大に解釈した、度の過ぎたポジティブ・シンキング論でしかありません、松田代表の育児アドバイスなどは…。

もし私がご子息の立場だったら――松田代表と血の繋がった親子関係であったならば「精神衛生上、タダでは済まない」でしょう。

ある時、ひょっこり不登校情報センターを尋ねられたご子息が、松田代表からお金を無心している様子を拝見し――毒舌じみた表現をすれば、松田代表をカネヅル扱いするご子息の様子を拝見した時、少々戸惑いましたが、今にして松田代表のメンタリティを考慮に入れれば、たとい血の繋がった親子関係にあろうとも、「あのような精神的な距離感は、松田代表に対しては極めて有効かつ適切な接し方である」と今なら断言でき、ご子息のご行為を「世間一般に溢れる、親孝行を強制する常識論に惑わされる事無く、よくぞあのように行動してくれた」と賞賛する所存です。

ある方から、当時「表面上」うまく行っているように見えた私と松田代表の関係について心配された事があります。
今なら、その理由が非常によく分かります。
私は「いちばん避けるべき人を、いちばん頼ってはいけない人を、心底頼ってしまった」からです。
そんな松田代表が、ただでさえ依存傾向が有り、自分のアタマで思考する事が苦手な「元」――本当に「元」かどうかは現実の精神上の問題としては怪しいと言わざるを得ませんが――「元」引きこもり当事者である母親の「育児相談」に乗るというのは、非常に危険なシチュエーションであると指摘せざるを得ません。


踏み込んで懸念材料を引用すれば、

子どもの心配になることをいくつか聞いた後で、「いいところは?」と聞き返しました。「私(お母さん)が大好きなところかな」と言います。「それでいいじゃないの」。

「今さえ良ければそれでいい。後は野と成れ山となれ(老い先も短い事だし)」という言葉がぴったりな、いかにも松田代表らしい返答だと思います。

幼子が親に笑顔を見せるのは「生存本能」の仕業です。人間の幼子は、産み落とされたその日のうちに自らの足で立ち上がる子馬などの動物とは違い、極めて脆弱な存在なので、自身の生存の為、親の庇護を獲得する為、親の顔を見たら笑顔を見せる、基本的に親を好くように、親から好かれる行動を取るように、本能に刻み込まれているのです。
子供が半ば生存本能によって口走る「ママ大好き」発言を以て、充足されていない親自身の承認欲求・自己肯定感を満たす」ような歪んだ状況に気付かずに親子が突き進んだ場合、相応の悲劇が予想されます。
それは、子供が反抗期を迎えた際、「子供の頃はあんなに可愛かったのに」等と面喰らう一般的な親心の悩みを遥かに超えた危険な領域に達する恐れがあります。自身の心の問題を解決せずに引きこもり当事者が、なし崩し的に親になった場合は特にそうです。
「自分が受けたような虐待を子供にしてしまう可能性があるから、結婚しても子供は作らない」と宣言した、とある引きこもり当事者の言葉が頭に浮かびました。
引きこもり支援団体から支援を受ける事によって、引きこもり当事者は、自身が作った子供を精神病に追い込んだりしない程度にはマトモな親になれる道筋を得られると期待したいところですが、不登校情報センター及び松田代表のこれまでの活動を観察した限り、或いは今回のメールのやり取りからしても、不登校情報センター代表松田氏にそのような淡い期待を、いわんや過度な期待を寄せるのは禁物であると言えましょう。

べつだん不登校情報センターや松田代表を引き合いに出さずとも、「虐待の連鎖」(虐待を受けた子が親になり、自分の作った子供に虐待をしてしまう世代間連鎖)というものが現実に存在します。
虐待とは、肉体的・心理的、目に見えやすいものか・見え難いものか、程度の大小まで様々です(人は個性が1人1人違う以上、程度が一般的に見て小さくとも大きな傷を受ける子供もおり、そういう子供を弱い子・駄目な子と非難するのは道理が通りません)。この「虐待」についても留意する必要が有ります。


名著『赤毛のアン』が示す、多様な家族形態の先見性

言わずと知れた、19世紀のカナダを舞台にした世界的にもファンが多いフィクション小説ですが、現実に起きた子供取り違えのハプニングに着想を得て執筆されたと言われています。
もう若くはない独身農夫(と農婦)の一家を手伝う働き手として、孤児院から男児を引き取るつもりだった開拓地のカスバート家のもとに、手違いで女児のアンが来てしまうところから物語が始まります。

何より特筆すべき点は、長男・長女が暮らす「本家」でありながら、「まるで分家」のようなカスバート家の家族構成で、「女性と接するのが大の苦手ゆえ婚姻暦の無い初老の男性マシューと、頑固者でこれまた婚姻暦の無いマシューの妹マリラの2人暮らし」という、世間一般から「訳有り」と見做されそうな家に、孤児院から里子が来るという、当時としては「社会の余り者同士が暮らしている」と揶揄されそうな一家が、互いを理解し合い成長していくストーリーは、世界情勢・社会環境が多様化するいっぽうで、これを伝統文化・秩序の破壊であるとしてテロリズムやヘイトデモが横行するギスギスした現代社会に対して、「本当に大切なものは何か」を問いかける普遍性のある作品であると感じられ、原作者は100年以上先の未来が見えていたのではないかと驚愕させらるほどです。

里子制度は現代の日本にもあります。近年では、児童虐待などの理由から施設に保護される子供が増加しており、虐待被害により「強度の人間不信に陥った子供」の子育ては一般的に非常に大変であると言われていますが、大人側の真摯な姿勢と適切なサポート体制があれば、決して乗り越えられない壁ではありません。
里子制度については、スタジオ・ジブリでアニメ映画化もされたイギリス文学『思い出のマーニー』でもクローズアップされています。


世界、社会、家族は、多様化し変化を続けています。

結婚♪出産♪子育て♪メデタイナー♪ 等々と、どこぞのイイカゲンな「支援者」もどきが、お手軽な取り繕いと自己保身の為に、旧来の価値観を発言の場所を選ばず無責任に撒き散らかす――このような稚拙なプロパガンダに惑わされ、無用に心を傷つけられる人々が少しでも減ることを、切に願うものであります。